今、とある本を読んでいる。
前々から個人的に興味があることではあったのだが、昨年の実習でその実態の一部を垣間見て、卒論でもまた違った切り口からその問題について考えてみようと思ったからだ。
読んでいると、何というか、すごく辛く、悲しくなってくる。
こんな事あって良いわけないのにという想いと、そう言いつつ俺自身もまた、俺が認めたくない世界の中で暮らしている事を実感させられるからね。
想いと行動が一致しない事へのもどかしさみたいなものはいつも感じている事なんだけど、いい加減にしないと俺も危ういね。
大袈裟でもなんでもなく、本当に。
というわけで、卒論に俄然やる気が出てきたんだけど、果てして俺にどこまで出来るのかねぇ。
ま、頑張りますよ。
とりあえず、昨日買ったT.M.Revolutionでも聞きながら気を奮い立たせるとでもしよう!!
2011年5月11日水曜日
昼夜逆転
というわけではない。朝は朝でちゃんと起きるし。
まぁ、単純に睡眠時間が短いというだけの事。よくある話。
だからこそ、こんな時間に更新をする事になるんだが。
では、ここから本題に入ろう。
就活が終わり、卒論に向けて動き始めてはいるものの、まだ本調査を始めたわけでもなく、まだまだスタートラインに立っていない感じである。
この空白の時間、就活を含めた俺自身の過去の動向から、ひたすらに俺という人間を分析する事に明け暮れている気がする。
友人と無駄話をしているからというのもあるが、こんな時間まで起きている事の理由の一つが、寝る前の自己分析なのである。
だが、別に初めての事ではない。
ふとした瞬間、俺という人間について思案するという事は、今までに幾度となくあった。
で、先日の文理の話にまた関わってくるわけなんだけど、よく言う‘コミュニケーション力’というものに関して、俺は俺なりに考えた。
俺は、人と関わる時にどういう風にしているのかを分析することでね。
一部では理系より文系の方が‘コミュニケーション力’があるという。
だが、文系と理系、どちらの方が長けているのかを考えた時、その答えはそもそも‘コミュニケーション力’とはどういうものなのかという、その定義によって大きく左右される。
先の主張の場合、‘コミュニケーション力’=‘多くの人と関わる能力’と捉えているように思える。
確かに、友達が少ない人より多い人の方が、一見‘コミュニケーション力’が高いようにも感じる。だが、俺自身の考えとしては、それは少しずれていると感じている。
なぜそういうのか?
それを説明するために、ここで俺自身が考える‘コミュニケーション力’というモノの定義を紹介しておこう。
俺が思うに、‘コミュニケーション力’というものは、‘標的となる相手を決めた場合、その相手に対してどの様な接し方(表情、口調、話題等々)を選択すれば、相手から有益な情報を引き出せるのか、もしくは双方にとって有益な展開へと持っていく事が出来るのか、そういった未来を逆算的に算出し、プロデュースしていく能力’であり、そのためには‘相手を、時には自分自身をも創り変えてしまう能力’だと言える。
相手を自分にとって有益な方向へ持っていきたいと思っても、相手が必ずしもその通りに動いてくれるとは限らない。逆に、自分自身が相手の都合の良いように扱われてしまう事もあり得る。
だから、‘コミュニケーション’というものは、双方が自分自身が変化してしまう可能性をかけてやり取りするものだと俺は考えている。
いかにして自分の理想の形に近づけるのかを、様々な情報から分析し、算出した理想像を手順に従って構築する。そういう意味では非常に理系的な能力だともいえるだろう。
さて、先の話に戻り、なぜ‘多くの人と関わる力’が‘コミュニケーション力’だと言いきれないのかについて説明したい。
そのために、文系と理系のコミュニケーションの取り方の特徴を、漁を例にして解説しよう。
理系の場合、明確にどの魚を捕まえるのかを決めたうえで、ではその魚を捕まえるのに最適の立ち位置はどこか、どういった道具を使えばいいのか、水深、水の抵抗、獲物までの距離などを計算し漁具(例えば槍なら槍、弓矢なら矢)を投下する。そうする事によって、狙った魚を確実に手に入れるのである。
一方の文系は、とりあえず、魚がたくさんいる場所に向かって投網を投げ込む。そして、引き上げてみたら複数の魚が入っているといった具合だろう。
単純に、多くの人と関わってるからコミュニケーション能力があるというのは、投網を投げたら沢山魚が入ったから自分は漁が上手いと言っているのと一緒である。
例えば、魚が20匹いるところに網を投げ、5匹捕まえたとしよう。果たして、他ではなくその5匹を狙って捕まえたのだろうか?
その5匹は、本当に自分が望んだ5匹だったのだろうか?
そもそも、どういった5匹が欲しいかなんて、最初から特に意識してすらいないかもしれない。
単純に数だけ見れば、もちろん投網型の方が有利かもしれない。
しかし、捉えたものがいかに自分の望んだものに近いのか、狙ってとったかどうかに注目した場合、明らかに槍型の方が優れている。
ただ、これはあくまで俺が考えるところの‘コミュニケーション力’の定義にしたがって考えた場合のみの結果であり、これが真実ではない。
でも、俺自身はそういった考え方に基づいて行動しているつもりである。
つまり、俺なりにその人に合わせた接し方というのを実践しているのである。一応ね。
ただまぁ、周りからは俺は人に合わせられない人間として見られているようで、割と最近も言われた。
そりゃ、この人と関わっても俺に利益なんてないと判断したら、下手に仲良いふりしても時間と労力も無駄でしょう。
じゃあ、俺がこの人とならって思える人がそんなにたくさんいるのかっていうと、そうじゃないしね。
人に合わせる=仲良くするではない。
その人と自分はどういう関係でいる事が一番良いのかを判断し、それに従ってふるまう事が人に合わせた接し方をとるという事。
俺はそう考えている。
もちろん、気に入った相手に対しては笑顔も見せるしこっちから話しかけもするし、積極的にコンタクトをとろうとする。
その反面、あまりピンとこなかった相手に対しては冷たいとまではいかないにしても、愛想は決して良くない。
両極端な人間かもしれないが、ある意味それはウチとソトの概念に似通ったところがあり、程度の差はあれ誰しも両面性をもったものなのである。
まぁだから、俺だってその気になれば人と仲良くできるんだよ。きっと・・・・・
とまぁ、相も変わらずわけのわからん話を長々と。
いい加減寝なさい!!
そうします、おやすみなさい。
まぁ、単純に睡眠時間が短いというだけの事。よくある話。
だからこそ、こんな時間に更新をする事になるんだが。
では、ここから本題に入ろう。
就活が終わり、卒論に向けて動き始めてはいるものの、まだ本調査を始めたわけでもなく、まだまだスタートラインに立っていない感じである。
この空白の時間、就活を含めた俺自身の過去の動向から、ひたすらに俺という人間を分析する事に明け暮れている気がする。
友人と無駄話をしているからというのもあるが、こんな時間まで起きている事の理由の一つが、寝る前の自己分析なのである。
だが、別に初めての事ではない。
ふとした瞬間、俺という人間について思案するという事は、今までに幾度となくあった。
で、先日の文理の話にまた関わってくるわけなんだけど、よく言う‘コミュニケーション力’というものに関して、俺は俺なりに考えた。
俺は、人と関わる時にどういう風にしているのかを分析することでね。
一部では理系より文系の方が‘コミュニケーション力’があるという。
だが、文系と理系、どちらの方が長けているのかを考えた時、その答えはそもそも‘コミュニケーション力’とはどういうものなのかという、その定義によって大きく左右される。
先の主張の場合、‘コミュニケーション力’=‘多くの人と関わる能力’と捉えているように思える。
確かに、友達が少ない人より多い人の方が、一見‘コミュニケーション力’が高いようにも感じる。だが、俺自身の考えとしては、それは少しずれていると感じている。
なぜそういうのか?
それを説明するために、ここで俺自身が考える‘コミュニケーション力’というモノの定義を紹介しておこう。
俺が思うに、‘コミュニケーション力’というものは、‘標的となる相手を決めた場合、その相手に対してどの様な接し方(表情、口調、話題等々)を選択すれば、相手から有益な情報を引き出せるのか、もしくは双方にとって有益な展開へと持っていく事が出来るのか、そういった未来を逆算的に算出し、プロデュースしていく能力’であり、そのためには‘相手を、時には自分自身をも創り変えてしまう能力’だと言える。
相手を自分にとって有益な方向へ持っていきたいと思っても、相手が必ずしもその通りに動いてくれるとは限らない。逆に、自分自身が相手の都合の良いように扱われてしまう事もあり得る。
だから、‘コミュニケーション’というものは、双方が自分自身が変化してしまう可能性をかけてやり取りするものだと俺は考えている。
いかにして自分の理想の形に近づけるのかを、様々な情報から分析し、算出した理想像を手順に従って構築する。そういう意味では非常に理系的な能力だともいえるだろう。
さて、先の話に戻り、なぜ‘多くの人と関わる力’が‘コミュニケーション力’だと言いきれないのかについて説明したい。
そのために、文系と理系のコミュニケーションの取り方の特徴を、漁を例にして解説しよう。
理系の場合、明確にどの魚を捕まえるのかを決めたうえで、ではその魚を捕まえるのに最適の立ち位置はどこか、どういった道具を使えばいいのか、水深、水の抵抗、獲物までの距離などを計算し漁具(例えば槍なら槍、弓矢なら矢)を投下する。そうする事によって、狙った魚を確実に手に入れるのである。
一方の文系は、とりあえず、魚がたくさんいる場所に向かって投網を投げ込む。そして、引き上げてみたら複数の魚が入っているといった具合だろう。
単純に、多くの人と関わってるからコミュニケーション能力があるというのは、投網を投げたら沢山魚が入ったから自分は漁が上手いと言っているのと一緒である。
例えば、魚が20匹いるところに網を投げ、5匹捕まえたとしよう。果たして、他ではなくその5匹を狙って捕まえたのだろうか?
その5匹は、本当に自分が望んだ5匹だったのだろうか?
そもそも、どういった5匹が欲しいかなんて、最初から特に意識してすらいないかもしれない。
単純に数だけ見れば、もちろん投網型の方が有利かもしれない。
しかし、捉えたものがいかに自分の望んだものに近いのか、狙ってとったかどうかに注目した場合、明らかに槍型の方が優れている。
ただ、これはあくまで俺が考えるところの‘コミュニケーション力’の定義にしたがって考えた場合のみの結果であり、これが真実ではない。
でも、俺自身はそういった考え方に基づいて行動しているつもりである。
つまり、俺なりにその人に合わせた接し方というのを実践しているのである。一応ね。
ただまぁ、周りからは俺は人に合わせられない人間として見られているようで、割と最近も言われた。
そりゃ、この人と関わっても俺に利益なんてないと判断したら、下手に仲良いふりしても時間と労力も無駄でしょう。
じゃあ、俺がこの人とならって思える人がそんなにたくさんいるのかっていうと、そうじゃないしね。
人に合わせる=仲良くするではない。
その人と自分はどういう関係でいる事が一番良いのかを判断し、それに従ってふるまう事が人に合わせた接し方をとるという事。
俺はそう考えている。
もちろん、気に入った相手に対しては笑顔も見せるしこっちから話しかけもするし、積極的にコンタクトをとろうとする。
その反面、あまりピンとこなかった相手に対しては冷たいとまではいかないにしても、愛想は決して良くない。
両極端な人間かもしれないが、ある意味それはウチとソトの概念に似通ったところがあり、程度の差はあれ誰しも両面性をもったものなのである。
まぁだから、俺だってその気になれば人と仲良くできるんだよ。きっと・・・・・
とまぁ、相も変わらずわけのわからん話を長々と。
いい加減寝なさい!!
そうします、おやすみなさい。
2011年5月10日火曜日
2011年5月8日日曜日
ホームシアターセット
とりあえず、朝方の激しい雷で目が覚めたせいで、2時間しか寝ていないというこの状況。
非常に眠たいぞ!
それはさておき、我が演習室についにホームシアターセットが設備さてた。
未だスピーカを繋いでいないため、音響は完成体ではない。しかし、現段階でもクオリティはかなり高い!!
うちの演習室はどこへ向かおうとしているのだろうか?
昨晩は完成記念?なのかどうかは知らないが、ドリルとともに「いばらの王」を鑑賞した。
非常に面白かった。
まぁ、所々難しい言葉が登場したが、意味は大体わかったし、話の流れも理解できた。ドリル曰く、あれを一発で理解するのはなかなかすごい事らしいが。
原作は漫画らしいので、是非とも今度貸していただきたい。
ま、何よりマルコさんが異常にカッコよかったのが印象的だった。
非常に眠たいぞ!
それはさておき、我が演習室についにホームシアターセットが設備さてた。
未だスピーカを繋いでいないため、音響は完成体ではない。しかし、現段階でもクオリティはかなり高い!!
うちの演習室はどこへ向かおうとしているのだろうか?
昨晩は完成記念?なのかどうかは知らないが、ドリルとともに「いばらの王」を鑑賞した。
非常に面白かった。
まぁ、所々難しい言葉が登場したが、意味は大体わかったし、話の流れも理解できた。ドリル曰く、あれを一発で理解するのはなかなかすごい事らしいが。
原作は漫画らしいので、是非とも今度貸していただきたい。
ま、何よりマルコさんが異常にカッコよかったのが印象的だった。
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